ブログコーナーでは個人的に素晴らしいと思った京都のステキな神社仏閣を紹介していきます。

大徳寺は鎌倉時代の末期に花園・後醍醐天皇の帰依を受け建立(1326年)されました。
臨済宗大徳寺派大本山で釈迦如来を祀っています。

大徳寺

大徳寺

この大徳寺には今でも有名な和尚様や歴史人が関わっていました。
とんちで有名な一休和尚。
たくわんで有名な沢庵和尚。
茶道の千利休居士・小堀遠州
戦国武将では、大友宗麟・織田信長・豊臣秀吉・前田利家(まつ)・石田三成・細川忠興(ガラシャ)などが、大徳寺の塔頭を建立し菩提寺などになっています。

大徳寺は、余りにも沢山の塔頭があるため一度に紹介しきれません。
ですから塔頭は、次の機会に私が拝観したところだけ紹介をしていきます。

ここでは本山の大徳寺をもう少し詳しく紹介します。

時代は「応仁の乱」大徳寺をはじめ京都のほとんどが燃えてしまいました。
そんな時に一休和尚が登場です。
彼に帰依していた堺の豪商たちが大徳寺の再建に力を貸しました。
そして堺の商人と言えば、千宗易(後の「千利休」)とつながって行くわけです。

豊臣秀吉が「織田信長」の葬儀をしたのが、ここ大徳寺です。
葬儀と言っても知っての通り遺体はありません。
それで秀吉は、信長の坐像(信長に一番似てると言われる)を二体作らせて
一体を火葬にしました。
これによって信長の後継者は秀吉であると示したと言う事ですね。
もう一体は、塔頭の「総見院」にありますが・・・!特別公開のみ拝観できます。

大徳寺

大徳寺

千利休が秀吉に切腹をさせられた一番の原因とされているのが、山門の「金毛閣」ですね。
平屋づくりの門を、利休が2階部分を寄進しました。
その時に、2階部分に利休の像を安置したことに
秀吉の逆鱗に触れてしまった事にあると言われています。

また秀吉は、聚楽第にあった唐門(日ぐらしの門)を大徳寺に寄進しました。
これも特別公開のみ拝観できます。これは凄い!じっくり見てると日が暮れるかも。

駐車場は門前にあり、有料ですがかなりの台数が置けます。